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家族残し帰還・自宅荒れ戻らぬ決断… 楢葉避難解除(1) 長橋亮文、山田史比古2015年9月6日07時13分朝日新聞

人は犬や猫じゃない。
生き続けるというのはきっと、周りにかかわりを持ち、働き、収入を得ながら暮らすということ。

原発被害で生活の根底から、覆されて4年でさぁ!帰れ!とはこれいかに?
ふるさとというものの、重さ。
心の苦しみと懐かしみは、どのようなことを映し出していくのか。
だれも責任を問われず、村や町も、「安全が保障されないのに避難解除していく」
この非情さに、どうするべきなのだろう?
答えなどないだろう。 

以下記事転載
東京電力
福島第一原発事故福島県楢葉町に出ていた避難指示が5日、解除された。故郷に戻った人、戻るか迷っている人、戻らないと決めた人。それぞれに4年半の歳月が重くのしかかる。

 

■「子どもたち、避難先になじんだ」

 避難指示が解除された、5日午前0時。大楽院第43代住職・酒主秀寛(さかぬししゅうかん)さん(44)は町の復興を願い、火柱の前で経を唱えた。「寺に住む者は、人びとに寄り添うべき人間。一つの区切りの日。今日から寺に戻ります」

 2011年3月11日は酒主さんにとって特別な日だった。真言宗豊山派本部から住職に任命され、住職を50年務めた父の明寛(みょうかん)さん(78)から寺の仕事の大半を引き継ぐつもりだった。避難指示が出た後、一家6人で避難した。

 町職員でもある秀寛さんは、同県会津若松市の借り上げアパートに一時避難して被災者支援にあたった。その後、妻千咲さん(39)、長女真由さん(11)と長男大誉(ほまれ)君(7)の避難する茨城県北茨城市に移った。明寛さん夫妻は群馬県を経て、福島県いわき市に避難した。
今回、楢葉町に戻ったのは秀寛さん1人だけ。子どもたちを戻らせるか決めかねている。町は17年春に小中学校が再開する。だが、大誉君に町の記憶はほとんどない。

 秀寛さんは「家族一緒に住みたい気持ちはある。だが、子どもたちは向こうの暮らしになじんでいる。学校再開までに、家族みんなで帰るかどうかを考えたい」と話す。

 檀家(だんか)には生活の不便さや放射線への不安から楢葉町に戻れない人も多い。楢葉町民の8割が避難するいわき市に設けた「別院」は当面、維持するという。

■「農業も無理、知り合いもいない」

 事故でまちは大きく変わった。沿岸部は津波で倒壊した住宅が今なお残る。田畑だった一帯には、汚染土を詰めた黒い袋が並ぶ。

 事故後、町内には原発廃炉除染作業に携わる業者の事務所や宿泊施設などが建つようになった。作業員が千人以上暮らし、元からの住民の数を上回る。昼時になると仮設商店街はトラックやワゴン車が駐車場に並び、作業服姿の男性たちでにぎわう。

 町に戻った元の住民も少なく、夜は暗くひっそりとしている。地域の結びつきも切れたままだ。いわき市仮設住宅で暮らす石沢輝之さん(75)は「帰りたいけど帰れない。町が暗くて、とても妻を一人で歩かせられない」と話す。

 5日夕、楢葉町から名古屋市緑区公営住宅に避難している松本頌子(のぶこ)さん(79)は、避難指示解除を伝えるニュースを見つめた。

 「もう帰れねえ。今さら解除って言われてもな。悔しい。悔しいけどね」

 愛知県に住む長女(52)を頼って名古屋市にきた。当初、夫の義治さん(80)と「1年ぐらいで帰れっぺ」と励ましあった避難生活は、4年半になる。

 楢葉町の自宅はかびが生え、ネズミに荒らされ、生い茂った草木は背丈を超えていた。家財の処分や片付けのために一時帰宅した長女らから、荒れていく様を聞いた。今春、「直すには1千万円かかる」と言われ、頌子さんは覚悟を決めた。「私はもう名古屋にいるわ」

 「おれは1人でも帰っからな」。それでも義治さんは言い続けていた。8月上旬、片付けの仕上げのつもりで一家で帰った。腰の痛みをおし、避難後初めて自宅に戻った義治さんは、涙をこらえきれなかった。

 隣は家を壊し始め、向かいも壊すと決めていた。一家5人で暮らしていた裏手は、80代のおばあちゃんだけが戻るという。近所の知り合いで、ふるさとに戻るのは1人だけだった。

 「帰りたい。でも百姓もできない、知り合いもいないでは、生きていかれねえ。あの家を見て、遠くなっちゃった気がした」と義治さん。自宅を取り壊すかどうかは、まだ決められずにいる。「ご先祖様には怒られっぺな」。少なくとも代々の墓だけは、楢葉町に残して欲しい。子どもたちには、そう頼んだ。(長橋亮文、山田史比古)